悪意のないひと、自覚のないひと
近ごろはさすがに擁護派も減ったようだけど、リケジョさんの捏造疑惑が話題になった当初「(過失はあったとしても)悪意はなかったはずの彼女を責めなくてもいい」と言うコメントをTwitterで見かけてぐるぐる考えたメモ。
◼︎悪意がないなら仕方ない?
リケジョさんの件は悪意の有無で決められる事柄じゃないけど、この「悪意はなかったんだろうから(大目に見よう)」って考え、私は日常でよく口にしている。
例えば職場や友達付き合いの中で、文句を言うほどでもないけどモヤっとする出来事があった時。
なるべく「相手もそんなつもりじゃなかったはず」と思うことで、"相手は以前からそう思ってたんじゃないか?"とか、"本当は相手が怒ってるんじゃないか?"なんてことを捏造しないようにしたい時。
「あの人も悪気があったわけじゃないよね」
ただ考えてみると、この悪意がないって状態が続くと、その後の付き合いに影響してる。
◼︎そんなつもりじゃなかったんだけど…
またこんな場合。
たとえば職場の人に告白して、振られてしまった。この半年、自分なりにアプローチをして、相手も満更でもない風だった。
それなのに、相手の返事は「そんなつもりじゃなかったんだけど。」
こんな時、相手はもちろん悪意なんかなかっただろうけど、断られたことがまずショック。
さらに自分なりのアプローチが理解されていなかったこととか、相手の反応と自分の感情が一致していなかったってことが傷を広げるように思う。
ただこれが友達から聞いた話だったら、たぶん相手にも悪意があったわけじゃないし仕方ないよ、って言ってしまうな。
きっとより身近になるほど悪意がなかったことは相手の行為を許す理由にならない。
悪意の有無なんかが気になる時点で、自分はその出来事に深く関わってないってことかもしれない。
◼︎悪意がないひとは純粋なひと?
悪意がないって状態は"無垢な人間"って風にも聞こえるけど、言い方を変えると"(こちらの)倫理や常識を理解していない"ってこと。
それなら、理解した上で行動した人のほうが、心象はともかく行動の理屈は理解できる可能性がある。
悪意のない人に、まず相手の行動がなぜ問題なのか理解してもらうなんて、自分が当事者だったら、ため息しかでない。。
◼︎なら、自覚があればいい?
そこまで言うなら悪意があるほうがいいのか。
友達で、ものすごく相手の要望に合わせてくれる人がいる。彼氏はもちろん、友達にも合わせるし、私もワガママを聞いてもらうことが多かった。
そんな彼女に言われたのが「ワガママなのは気にならないけど、ワガママじゃないって言うのはやめて。」
言われた直後は、結局付き合ってくれるのに、そんなもん?って思った。
◼︎相手の労力を理解すること
でもこれ書くために改めて考えてみたら、「自分はワガママ」って思ってる相手に合わせるのと、ワガママのつもりもない相手に合わせるんじゃ、後者は"相手の意見に合わせてあげた"って彼女の労力が、きっとなかった事にされちゃうんだな。
ワガママは悪意とまでは言えないけど、相手にどう思われるか自覚がある=受け入れる方の気持ちや労力を理解してるって意味なら、自覚してるほうがマシじゃないかと思う。
◼︎自覚するなら
自覚って、自分の性格を把握するような主観的な作業ってイメージだったけど、むしろ他人から見た自分を自覚したほうがいいのかもしれない。
別に他人から見た姿を良い・悪いで分ける必要はない。でも姿が見えると、周りが自分にしてくれていることも分かるようになると思う。
性格がいいとか悪いとか、そんな事よりもっとフラットに物事を受けとめたい。
そんな感じで日々の泡をブログに書いてみよーと思います。
とりあえず1週間続くのが目標!